実全和尚の法話集
『清泉


平成13年4月〜平成14年3月
花園に記載


妹から兄への贈り物

 一周忌のご法事御斎(おとき)の席で、故人の兄が、
「私の着ているこの礼服、少し小さいとおもいませんか」と尋ねられました。

 「実は、今私が着ているこの服は、私が東京芸大在学中、コンサートに着る服が買えなくて困っている時、妹が高校を卒業して、銀行員となって初めてのボーナスで、私に買ってくれたものです。私はそれ以来五十年大切に着させてもらっています。とりわけ、葬儀以来、妹の仏事には必ず着ることにしております」

 と、お話くださいました。
 故人は、学校の教師の家に嫁ぎ、一男一女に恵まれ、幸せな家庭を築いてこられました。しかし、六十歳を過ぎて病に倒れ、数年にわたる闘病の後、六十六年の生涯を終えられたのです。
 故人が生活を営んでこられた宇和島市から菩提寺までは、車で三十分程度時間を要する距離がありますが、しばしば友人やかっての職場の同僚が、故人の墓を尋ねてお参りされます。菩提寺の住職である私は、その都度見晴らしの良い山手にある墓地までご案内をさせて頂いております。
 ご縁のあった皆さんが、あまりに度々そのお墓を尋ねて来られるので、にわかに、一体どんなお人柄だったのだろうかと、気になりはじめた矢先に兄上の話を聞き、そのお人柄に触れることができましたことは、本当にうれしくありがたいことでした。その日は知らず知らずのうちに話が弾み、心和む一日でした。
 故人の願いは、現在七十半ばになるその兄の
 「体の続く限り、地元の合唱団の指導に取り組んで行きたい」
という、尊く堅い誓いとなって受け継がれています。

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上手くないのに
 今から二十五年程前のことです。郷里に帰って寺を継ぐ決意をしたころ、小学生の頃通った書道教室の先生の元へ、筆を頒けて貰おうと訪ねました。すると、先生が
 「あのなぁ、僕がこの町の人をみんな字を上手に書けるようにしといたから、君がお寺へ帰ってきて下手な字を書くとかわいそうや。もう、弟子は取らぬことにしとるけど、教えてあげるから来ぬか」
 と言われます。
 「ありがとうございます。ぜひお願いします」
そうお返事を申し上げると、早速半紙と筆を取り、お手本を書いてくださり、
 「書いてみなさい」
 と言われます。緊張の中、一生懸命お手本に習って書いたつもりでしたが、なかなか思うようにはゆきません。すると、
 「あのなあ、あんたはへたなのよ。どうして上手く書こうとするの」
 これにはまいりましたね。
 先生は、若いときから家業の肥料屋を手伝いながら、書に志を抱かれたのですが、花を開くまでに相当の年数を要されたようです。
 しかし、先輩書家からもう諦めたらと促される中、父親だけが
 ”決して諦めるな”と励ましてくれたそうです。
 当時は、すでに地方に居ながらにして、日展の無審査になられる程の大家になっておられたのですが、気負いも、てらいも消え果て、本当に自由を得ておられたように思います。
 生来の悪筆。書は一向に上達しませんが、「上手く書こうと思うな」そして「何事にも挫けないで継続することが大切である」との教えは、仏道と同じく人生全てに生かさせて頂いております。僅か二年でしたが、ご指導頂いた御恩は生涯忘れる事ができません。
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鬼仏庵主
(ものの尊さ)

 三十五年以上も前のことです。私は、中学入学以来三年間、毎週土曜日の午後、自転車で茶道の先生の元へ通いました。丸二年ほど経ったころ、お手前の最中に不注意で棗(なつめ)を転がし、たたみ一面にお抹茶をふりまいてしまったことがありました。

 「勘違いをしないように聴いてください。銭かねのことを言うわけではありません。今、あなたが使っているお茶碗はもとより、水屋にあるお茶碗もみんなお金を出して求めると、五万円を下るものはありません。なぜ、そんなに高いか分かりますか。心をこめて作って下さった人、割れ物を五十年、百年あるいはそれ以上の間、何人もの人が大切に使い、壊さないで遺し
(のこし)、伝えて下さったからですそのことを忘れないで大切に使って下さい。」
 静かにお諭しいただきました。

 先生は村中でも一二を争う裕福な家に生を承けました。しかし、四十歳になるまで放蕩三昧を尽くし、ついにはほとんど財産を失い、奥様は自らその命を絶つに到りました。
 以来、その懺悔と追善に一念発起して茶道の道に志を立て、六十を過ぎた頃には近隣市町村にも名だたる茶人になっておられました。新弟子を取らない筈の先生が、直々にご指導くださったのは、外でもない、私が寺を継ぐと思って下さったからでした。ですから、三年間ひたすら平手前しか習うことがありませんでした。
 今でも先生の面影と、鬼となって茶禅一如を極めてゆかれた、先生の茶室に掲げられていた『鬼仏庵』の額が、まぶたに浮かんでまいります。

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            ふ      
 
臥せる菩薩さま
 四十年も前の出会いですが、今でも不思議なほど鮮明に記憶に残っている人がいます。
 その人は、病床に臥して十数年を経過しておられました。
 三十代半ばのその人は、十九の時に家業の材木の積み下ろしの手伝いの最中に、木材に挟まれて、下半身の自由を失って以来の入院生活でした。
 盲腸を癒着させて二週間の入院生活を余儀なくし、同じ病室で過ごした私はわがまま放題の中学生でしたが、なぜかその人の語りかけには不思議と心を和まされたものです。
 病床の中で気分の優れた日にはタバコの空き箱で鍋敷きや手毬を器用に折り、他の病室やお知り合いに届けて、多くの人々に喜ばれておりました。
 その人は、一度も不快な表情を見せず、お世話をなさっておられる年老いた母親に文句の一つも言われたことがありませんでした。
 今でも、いつもニコニコとしておられたことしか、思い起こすことができません。
 私は退院後、数回お見舞いをさせて頂きました。二〜三年ほど経ったころ、老母に
 「長い間、お世話をかけました」
 このひと言を残して帰らぬ人となられたことを伝え聞き、それが心に深く残ったことが、いまでもその人を忘れることができない理由なのでしょう。
 長い入院生活の中では、どんなにか厳しくつらいことがあったに違いありません。
 しかし、そんな中にあっても、美しい花を咲かせて逝かれました。
 人生の終焉を迎えるとき、感謝の言葉を伝えることができる人は、寿命の長短にかかわらず、すばらしく貴いことだと思わずにはおれません。
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平和の願い
 昭和二十年六月、私の母方の叔父は二十三歳この世を去っています。
 彼はこの年、横専(現横浜国立大学)工業経営学科を繰り上げ卒業し就職も決まり、海軍航空隊に入隊しましたが、一度も戦闘機に搭乗することなく防空壕の中で戦死を遂げています。
 母親と二人の姉を残してこの世を去る覚悟は、並大抵のものではなかったとその心中を思う時、思わず知らず込み上げてくるものがあります。家は絶え、永代供養に合祀してお護りしてあります。
 皆さんにおかれましても、ご血縁の中に戦争の犠牲になられた人がいないご家庭はないのではないでしょうか。よしんば、命を永らえることはできても心の傷は永遠に消えることはないでしょう。
 たった一人の命を奪っても殺人罪が問われるこの世の中で、多くの人の命を奪って勲章を頂くような愚かな過ちを、二度と繰り返さないと誓ったのはどこのどなただったのでしょう。
 ましてや、仏教徒は一匹の虫の命も、一本の草花にさえも限りない情愛をもって、あだやおろそかにしないと誓ったのではないでしょうか。
 戦後の生まれの私でさえ、充分にその戦争の悲惨さを味わってまいりました。戦前・戦中・戦後を生き抜いてこられた方々には、いかばかりでありましょう。
 どうかお願いでございます。皆さんが味わってこられた苦しみを、子々孫々に至るまで二度と味あわせたくないと思ってくださるのならば、今、何をなすべきかを自らに問うて頂きたいものです。
 たった一人の願いは小さくても、その願いを持つ人がおおくなるとき、必ずや大きなうねりとなっていくと信じて疑いません。
 お盆のお参りの最中、毎年、戦争の絶える日を願わずにおられません。
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友人の墓参り
 平成五年九月二十五日、小学五年生の少年が踏切事故で尊い命を失いました。
 その日、息子タクヤは明日の運動会を控え嬉しそうに帰ってきました昼食をとりながら「あのなぁ、お父さん。ヒロシ君達と遊びに行ってもいい」と聞いてきたので、「あぁ、いいよ。でもちょっとまてよ、・・・・・・」と、いつもの口癖の注意事項を言い渡し、家を送り出しました。
 遊び疲れ、喉が渇いた彼らは、三人でスーパーを目指して自転車を走らせたのでした。ヒロシ君は、先頭を走っている友達が、警報遮断機のある踏切を目指して曲がるのを制し、何を思ったのか、工場の中にある踏切へ向かいました。そこは工場の騒音が渦巻いており、彼らは警報機も遮断機も無い踏み切りに、時速百キロ以上のスピードで迫ってくる、特急列車に気づくことが出来ませんでした。
 翌日の運動会は中止され、直ちに町内八ヶ所の警報機も遮断機も無い
踏み切りに、警報遮断機を設置して頂くよう、学校・PTAが中心となって働きかけました。
 しかし経費の問題で暗礁に乗り上げてしまい、危険な踏切りは存在し続けたのでした。そして数年後、更に二人の尊い命が犠牲になって、ようやく警報遮断機が取り付けられたのでした。
 この時ばかりは、誰かが犠牲にならないと、何も変わらないことに対し、悲しみを通り越してやり場のない憤りを覚えました。
 ヒロシ君は、小学一年生から五年生まで、毎年3日間の子供坐禅会に参加してくれました。優れて聡明な気質で、普段から寺へもよく遊びに通ってくれました。そんなヒロシ君の墓参りを、今も同級生が毎年欠かさず続けていることを思うと、悲しみの中にも救われる思いがいたします。
 八回目のご命日を迎え、在りし日の姿を思い浮かべつつ、ご冥福をお祈りします。
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ありゃー 生きとったか
 昭和二十三年秋、愛媛県南西部の中川村という小さな村で、私は八ヶ月の早産で生まれました。今なら保育器入りでしょう。
 「上に二人も男の子がいるのだから、母親を助けるに決まっとるわな・・・・・・・」と、
 母親は病気のため、親を助けるか、子供の命を助けるかと医師と家族の間で評定がなされたようです。
 母親の手当てを終え、ようやく微かに泣き声をあげる未熟児を、七十を過ぎた祖父母が僅かに蓄えていた米で、上澄みから次第に重湯になるまで与え続け、育ててくれました。
 私は、母親の母乳から免疫を受け継がなかったので、いくたびも生命の危機に瀕したそうです。
 その都度、医師は枕もとに駆けつけ、
 「今夜あたり心配やなぁ。何ぞあったらきてやるっぞ」と言って帰られ、翌朝は診療前に必ず駆けつけ枕元までやってきて、
 「ありゃー、生きとったか」
 そんなことがあったからでしょうか、私がおたふく風に罹った三年生の時に病室に入るや、医師は抱きしめんばかりに大喜びでカメラを取り出し、裏庭にいざなって写真を撮って下さったのです。
 「あんたがなぁー、よう育ったもんやなぁ」と嬉しがっています。
 その時代には、幾人もの人が必死の看病の甲斐もなく、この世を去られました。そのため先生には、「ヤブ」の中傷もありましたが、労を惜しまず駆けつけて下さいました。
 晩年、懺悔の思いと追悼の気持を、地蔵堂建立に託されたご芳志を思うと時、本当に良医であったと思います。
 戦後の薬も満足にない時代に未熟児で誕生し、ろくな食物にも預からず、今日までこの世に命を永らえてこられたのは、今は亡き先生のおかげだと感謝と追慕の念しきりで、わたしにとって一番大切な命さえ、この私一人のものではないと感謝し、生きていきたいと思うのです。
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さわやかな朝


 平均すると毎月一回程度、五時間半の時間をかけて、ご本山妙心寺へ上山させて頂きます。
 愛媛県南西の山間にある宇和町から京都まではかなりの道程になります。
 午後からの会議だと早朝一便の列車に乗車すれば間に合うので六時半に寺を出立します。
 十一月になりますとさすがにその時間はまだ暗く人通りもほとんどありません。
 ある朝のことです。無人の駅構内に入って、老婆とおぼしき人影がしゃがみこんでおられるのをみて、佇んでしまいました。
 「放ってはおけないな。でも関わっていると会議に間に合わなくなる。どうすれば良いのだろう」と、思っていました。
 少しずつ近付いて声をかけようとして、はっと気付きました。
 気分でも悪くなられて、しゃがみこんでおられると思い込んでいたその人影の手には、小さなちり取りと箒が握られ、無人の薄暗いホームのお掃除をしておられたのです。

 知らぬ顔をして通りすぎ、階段を登って向い側のホームへ渡り切った頃には、数名の人がホームへ入ってこられ、少しずつ明るくなりはじめてきました。その頃になると、老女はすーと影が消えるように立ち去って行かれたのです。
 この時は、出張の間も帰って来てからも、心の中がさわやかな思いに満たされていました。
 いつの間にか忘れていましたが、思い起こすたびに、これこそ真の『陰徳』と名前も顔も知らぬ老女がいとおしく思われます。

    『陰徳』・・・・人に知られぬよう施す恩徳(『広辞苑』)
        私共禅宗では陰徳を大変重んじております。
        右の手が行った良い行いを、左の手が知らぬように、
        右の耳が聞いた良きことを、左の耳は知らぬように、

        良き行いを積み重ねて、お徳を積んでまいりたいものです。

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悔いなき看取り

 

 Uさんの納骨を終えての帰り道。
 ご令室に恐る恐る「お嬢さんは就職されましたか?」と尋ねました。
 「はい、おかげさまで新しくできた施設に就職することになりました」
 「それは何よりでしたね」
 ご主人が、急に加減が悪くなられて入院されました。店の切り盛りと、寝たきりのお姑さんのお世話、それにご主人の看護は並大抵のことではないと、蔭ながら案じておりました。
 そんなある日、「主人は、お医者様が来られても『大丈夫です。いいですよ』としか言わないんです」と、お寺参りにこられた時に、涙ながらに話して下さいました。
 「却って、いたましくてね。でも、娘が仕事をやめて看病を交替してくれるようになりました」
 「ありがたいことですね」
 と、申し上げながら、こんな就職難の時期によく思い切られたと思ったものです。
 介護士の資格を取られて、以来八年間もお勤めになった職場をやめて、父親の介護に当たられたご長女の思いは、『後で心残りがあるとつらいから』とのことでした。
 新しい職場の面接には、現役の学生が多く、そのうえ面接の応答もうまくて、「『とても自分はだめだろうと思っている』と、言っていたにもかかわらず無事に就職でき、母親として責任を感じていただけに、ほっとしています」と、話してくださいました。
 私は、思わず申し上げました。

 「私が人事の担当者であれば、まずお嬢さんを採用するでしょう。だって、そんな思いやり溢れる人こそ、介護の仕事に最適の人ですから!」と。
 ご本人の実力はもちろんでしょうが、徳を積めば必ず果報があると、悲しみの中にも嬉しさがこみあげてまいりました。

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   みそ汁の具
  ずいしょ    しゅ   な
【随所に主と作る】

 故人は、息子さんが六十歳を過ぎたころ、次のように戒められたそうです。
 「老い、お前はどうしてそんなに肩肘を張って生きるんだ。わしはなぁ、みそ汁の具になっても構わんと思っているいるが、みそ汁の具の中でも麩になろうと心掛けて生きてきた」
 「麩はなぁ、箸で押しやられてもまた元のように戻ってきよる。押さえつけても必ず浮き上がってくるじゃないか」と。
 二十六歳の若さで満鉄の専務になった故人は、終戦に至るまで映画を極めておられたようです。しかし、しゅうせんによりその生活は一変してしまし、やっとのことで両親の所までたどり着いた時には、かってたくさん有していた田畑は農地解放によって接収され、
全てが失われていたそうです。
 こんなことでしたので、戦後は大変苦労をされ、その暮し向きは並大抵ではなかったことが推し量られます。
 やがて、息子さんのところへ同居なさってからも、八十八歳のご高齢にもかかわらず、八十歳を過ぎた妹さんを伴って自らの運転で九州一周の旅をされるほどお元気な方でした。
 九十四歳で、僅か一夜の患いで大往生を遂げられたご老人。そのお通夜と葬儀は、大みそかを目前に控えていることもあって、二人の息子さんとそのご家族のみで簡素に営まれました。
 精進落としの席で、
 「そうよ、そうよ。もう一つ親父は絶対に人の悪口を言わなんだのぉ。人が集まって悪口を言い出したら、知らぬ間にその場に居らぬようになりよったなぁ」
 愚痴をこぼす事なく、いつもニコニコして淡々と暮らしておられた故人から、尊い教えを頂戴する機会にとなりました。
 新しい年のはじめに、自分を失わない一年への決意をみなぎらせてまいりたいものです。

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                     わ みょう るい じゅうしょう
 平安中期に作られた『和名類聚抄』(百科事典的分類による緩和辞書)の地名の欄に
                                             さかのぼ                                                               もっかん
「宇和郡」という名前が出ており、遡って、「宇和評」という律令時代に記録された木簡も奈良国立文化財研究所に所蔵されています。
 「宇」とは四方上下と古今、空間。「和」とは、やわらぐ、ほどよいなどの意味です。まことに良い地名で、古墳時代前期から継続してきた歴史と、この地名には誇りを持ち続けたいと思っています。
                                                                           きんつね
 弊寺、光教寺は嘉禎二年(1236)に藤原(西園寺)公経が宇和郡を鎌倉幕府に願い出て荘園とし、三十年後に創建した寺です。
 西園寺家は宇和の荘を得てから百数十年後領地へ下向し、天正十五年(1587)戸田勝隆に滅ぼされるまで、その治世は三世紀半も続きます。その後二十年の間に戸田勝隆、藤堂高虎、富田信高と領主がかわり、藤堂高虎以来宇和郡の中心は板島(宇和島)に移り、伊達家が大政奉還
(たいせいほうかん)まで宇和を治めます。
                              きんひろ                                                                       げんぞく
 西園寺最後の領主公廣はかっては出家して来応寺に住していましたが、還俗して後継者となります。
             しゅいんじょう                         あんど
公廣は、朱印状により領地を半分安堵するという戸田勝隆の欺きの招きに応じて大洲へ出向くに当たり、辞世(じせい)を残しています。
                くろ せ やま
        黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと
                              ひと                                 さとびと
               他人には告げよ 宇和の里人
 私も峰の嵐に木の葉が散って行くように自然の摂理の中に散って行ったのだと他人には告げなさい。恨みを残せば再び争いになり無辜(むこ)の民の命を失うことになる。公廣は、残される民の行く末を思い、戒めを残して逝きました。「恨みは、恨み無きによりてのみ、止むことを得ん」という、み仏の教えを身をもって実践して行かれた公廣卿。その御廟(ごびょう)には今日でも、お参りが絶えません。 
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いのちあるもの幸いであれ
 仏教徒は幸せだと思われませんでしょうか。
 なぜなら、宗派にはあまりこだわりがありませんので、宗派が異なるからといって僧侶がお互いに武器を手にとって争ったことを歴史のうえに学んだ人はいないでしょう。
 それには理由がありそうなものだと考えてみますと幼い頃から「宗論は釈迦の恥じ」と戒めてこられたことを思い出します。もともとはお釈迦さまから始まったのだから、お互いが争っては、お釈迦さまに恥をかかせることになると戒めてこられたのであります。
 しかし、それだけではなかなか得心ができませんでした。私どもが朝夕おお勤めの最後に必ずお称えする『四弘誓願文』というお経があります。その第一には「衆生無辺誓願度」(いのちのあるものは限りなけれども誓って導かんことを願う)と称えています。
 これは、「生きとし生けるもの幸せであれ」という、お釈迦さまの願いそのもので、仏教の教えは、信じようとも信じまいとも〔いのちあるものは〕必ず真理に目覚めて心安らかにすごして欲しいとの願いが出発点となっていることに気づかされます。
 お釈迦さまの願いは、すなわち私たち仏教徒の願いであらねばなりません。
 宗教、人種や民族、国の違いを乗り越えて「人が人として、してはならないこと、なすべきことは何か」を、今私たちは自らに問わねばならないのであります。お彼岸を機縁として、学び、行じ、永遠不変の真理に目覚めるよう努め、お互いの違いを認めあって、和(なご)みの世界を築いてまいりたいものです。
 さて最後になりますが、多くの人々とのご縁を感謝しつつ、それらの人々の生きざまの中にお釈迦さまの彼岸への誘いに適うものを求めて、わが心の内を訪ねてみた一年間でありました。お付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。

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この法話集は2007年度以前に妙心寺ホームページへ掲載されたものです。


自分自身を創造しよう


 人生で言う青春時代は木々で言えば新緑の頃であろうか。生き生きとした息吹きを感じる時、思わず知らずこちらも元気が湧き起こる。自然には大きな力が蓄えられている。いつもそう思わずにはいられない。全く同一種の木が、芽生えた環境の違いに見事に適応しているのを見るとき、「人間だってできる筈だよ」と思う。人は生まれてくる家も、両親も、周囲の環境も異なってこの世に誕生するが、確実に成長しやがて老化の一途を辿る。

 庭木の移植をしてみると、弱そうに見えた木が意外にしっかりと根をおろしホッとしたり、丈夫だと思っていたら全く意に反することがある。それにはやはり時節や時期を見計らったり、環境を充分に観察し整えておかなかったことに起因するところもあるが、なんと言ってもそれぞれの持つ生命力とでも言うべき特性の働きによるのではないかと考える。多くの場合、根の部分がしっかりと掘り起こせることが重要な要素となる。

 妙心寺の開山堂の前の池には今、睡蓮が見事に咲き誇っている頃でしょう。蓮はその根をどろどろのドブの中に下ろし、しっかりと力を蓄えている。その力が水面に美しい花を咲かせてくれるのです。仏教の教えはそれになぞらえるので蓮の絵や押し型が仏事の熨斗に使われるのです。私たち人間も自然の申し子の一つであるならば、同様に根っこを育てておかなければなりません。私たちの根っこはどこにあるのでしょう。自分を創造することこそ私たちの求める根っこなのですが、思い込みや引っ込み思案が災いしてかなかなかすんなりと自分育てができません。自分を創造するためには、そんなものを振り払い振り払いして行くことが肝要です。何と言っても大切なことは自分自身が自分自身を見限らないことです。この私がこの私を見限ってしまっては誰がこの私を導き創ることができるのでしょうか。思い込みや引っ込み思案を捨てて正しい目標を立てて自分自身を創造しよう。

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報恩謝徳


 
 今から六百五十年も前、ご自分の離宮をお寺(妙心寺)として開かれた花園天皇には、「生まれた時から苦労なく物に恵まれて庶民の苦しみをいささかも顧みることなく育てられ、いつしか人の上に立った。そのような人が人の上に立ってはいけない」と、やがて天皇の位になることを約束された太子(後の光厳天皇)を誡めるために「才と徳を備えよ」とお諭しになられた文章が残されています。(『誡太子書』)

 その花園天皇が御在位中であった十七歳の一日の日記には、この度の大洪水で多くの人々が、田畑や家屋、衣類や食料を失ったばかりか親子兄弟生き別れか、死に別れか所在が判らぬままにさまよう姿に心を痛め、「人々の上に立って人々を護り導いてやらねばならないこの私に徳が無いからこのようなことが起こるのであろうか。もし、この私の命を捧げることによりこれらの人々の苦しみを救えるのならば、この私の命はいつ捧げても良い」と述べておられ、その後も世の人々の苦しみを終生にわたって我がこととされています。

 封建社会以前、人のあり方や社会の仕組みが全て誤っていたわけではないように思われます。かえって現代よりも明確な理念に基づいて人びとを導こうと心がけていたのではないでしょうか。愛媛県西予市にも七百年以上も前から領主に成り代わって民を治めていた家が続いていますが、その中の一当主が次のような文書を残しております。

 その当主は先年百六歳でこの世を去りましたが、旧庄屋のお講に際して、次のように呼びかけておられるのを拝見して驚きと感動を覚えました。「代々人びとの上に立って人々のおかげで暮らしてきた庄屋、名主の身分に生きてきた私たちは、そのことをひと時も忘れてはいけない。私はこれまで、一年の所得の一割は必ず社会のために使ってきた。これからも命のある限り、続けてゆきたい。どうか、皆さんもご賛同くだされば幸いです」と。

 先に述べた花園天皇は世の中が混乱して人々が苦しんでいるのを見て、我がことにして悩み苦しみ、仏道に入門されます。やがてお覚りを開かれ、心に安らぎを得られると、その後は仏法のご恩を忘れることなく報いて行きたいと願われました。今の時代は、目に見える何かの能力が優れていることだけがもてはやされます。しかし、「徳」は能力ではありません。悪いことをしないで、よいことを積み重ねて行くことによってのみ自然に備わってくるものであります。目に見えてよいことをするのは、意外と簡単なことですが、目に見えないところでも悪いことをしないのは大変難しいことで、これこそ「徳」を積む道です。

 絶えず徳を積もうと心がけて行くことこそ「報恩謝徳」の願いに通じる生き方でありましょう。今こそ、そんな生き方に目覚めてまいりたいと思われてなりません。 

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強く生きなきゃ


 ロック歌手尾崎豊の歌の中に「はいつくばり、強く生きなきゃと思うんだ」というフレーズがあります。彼の歌には「人の命のうずきみたいなものとでも言おうか。痛みがあったと」音楽プロデューサー須藤晃氏は分析しました。
 現代に生きる若い人びとには伝えたいと願うのです。いのちの痛み。生きることのうずきこそが、大切な人生の第一歩なのだと。

 「人間を愛し、人間を愛し続けていくと、結局、孤独にならない」と、尾崎は言う。こんな素晴らしい詞を歌う彼だからこそ強く生き抜いて欲しいと願ったのは多くのファンだけではなかった。

 仏教の経典を開いてみると、これでもかと言わぬばかりに無常と死が繰り返されています。「快楽はひと時のものである。人間の寿命は短い。死の来ないということはない。昼夜は過ぎて行き、生命も尽きてしまう。小川の水が涸れてしまうように、人間の寿命も滅びてしまう。」これでもか。これでも分らぬか。とばかりに繰り返し、繰り返し説かれています。

 人間として、生きたいと願っても生き続けられないいのちが、毎日毎日、この世に別れを告げて行きます。世界では戦争と飢餓の犠牲によりたくさんのいのちが絶えています。国内では、親が子を殺し、子が親を殺し、自らが自らの命を絶ったり、と悲しみに堪えない出来事によっていのちが絶たれています。
 だからこそ、生きて、生きて、生きぬいて欲しいと願うのです。地べたに這いつくばっても生きて欲しいのです。いのちの痛み、生きていることの疼きから目をそらさないで、まっすぐに向き合って生きて欲しいのです。

 みんなにかっこ悪いと言われても良いじゃないですか。死んでしまったら折角の歌が聞こえなくなってしまうもの。残念だと思いませんか。生きようとしても生きられないいのちがたくさんあるこの世に与えられた命を粗末にすることが。這いつくばっても生きてみよう。かっこ悪くても生きていよう。生きぬいてみよう。わたしたち和尚はみなさんとともに生きていきます。いつでも声をかけてください。


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