目次
ご覧になりたい項目をクリックして下さい

目次

前書き

『始めに』

 人間が他の動物と違っているのは何だろうか。色々有りそうですが、一度じっくり考えてみるのもおもしろいですね。一番大きく違っていることは、人間は心を持っているということではないでしょうか。人間は自分自身を自覚する事ができます。同時にまた他の人や自分を取りまく世界がわかります。そのうちに自分の人生といううものを考え、自分の力で切り開いて生きていこうとしています。

 メジャーリーガーの松井秀喜氏は学生時代に先生から「アミエルの日記」の次のことばを教わりました。
 心がかわれば 態度がかわる
態度がかわれば 習慣がかわる
習慣がかわれば 生活がかわる
生活がかわれば 人生がかわる
(アミエルのことば)

 そして彼は「そうだ、このことばを私のモットーにしよう。」と決意します。その決意と 努力で人生がかわり、今日の松井秀喜氏が生まれたのです。
 人は誰でも幸せになりたいと思うに違いありません。でも、幸せって何だろう。どのようにすれば、自分のものにすることができるんだろう。これはなかなかの大問題です。しかも人生は自分だけで生きているものではありません。色々な人々と社会生活を営んで生きているものです。その社会生活の中で人々とどう付き合っていけば良いのか、そして人生を生きる上で大切なことは何だろうか。

 この本にはあなたを少しずつ、少しずつ幸せに導いてくれる禅のことばが、いっぱいつまっています。皆さんがいつも使っていることばであったり、始めて知ることばもあります。その禅のことばや教えを学び、自分でも考えてみてほしいものです。今までと違った生き方、新しい人生が必ず開かれてくると思います。そして一人でも多くの方が、より幸せな人生を創造して下さることを願っております。

 

 

 

※人間が他の動物と違うところ  

@
直立歩行
A
火や道具を使う
B
心があり、笑いやなみだがある
C
言語を持つ
D
自他の区別がわかる
※ヘンリー・フレデリック・アミエル
(1821〜1881)
スイスの哲学者・文学者『アミエルの日記』
は1839〜1846の書 

 

 


目次

釈迦伝

『お釈迦さま』

 キリスト、孔子、そして釈尊は人類の心の師として、三聖人と呼ばれています。お釈迦様は今からおよそ二千五百年前、紀元前五世紀頃インドのカピラ城の王子として生まれ、ゴータマ・シッダルタといいます。シッダルタは生まれて七日目に生母を亡くされ、若い頃から内向的な心が芽生えていました。
 ある時、お城での豊かで何不自由のない生活から外へ出て、城外の色々な人間の生きざまをごらんになりました。そして「人間はどうして老いや、病や死というう悩み苦しみをもっているのだろうか。どうしたらこの苦しみから解放されるのだろうか」と考え悩まれるのです。ついに二十九才の時に、王子の位も恵まれた生活も捨てて深い内省と苦行の生活に入りました。
三十五才になり、深い座禅の後、人間の全ての苦悩を解決するさとりを開かれ、仏教の開祖となりました。さとりを開かれた時お釈迦様は全ての人は、本来生まれながらけがれのない、そして何ものにもとらわれない心を持ち、また全てのものを受け入れる大きな愛情があることに気付かれました。
 そこで人々はもう一度この本来の素晴らしい心に立ち帰るのが良いのだと教えられました。
 その後、その仏教の教えを説き広め続けられ、八十才で安らかな死を迎えられました。
 お釈迦様は、人間の幸・不幸は神のような絶対者が決めるものではなく、また運命の様にっているのではなく、全ては色々な条件やめぐりあわせでおこり、その人の心の受け取り方で決まるのだと教えました。

一、四月八日はお釈迦様の誕生日で年「花まつり」という行事が行われています。色とりどりの花で花御堂を作り、小さな誕生仏に 甘茶をそそいであげます。また、子供中心のいろいろのお祝いの行事をもちます。

二、禅宗のお寺では、お釈迦さまがさとりを開かれた十二月八日を記念して「成道会」という行事をもちます。そして禅宗の修行道場では、この日を忘れないように特に厳しく深い座禅の行を十二月一日から一週間ぶっとおしで行います。

三、二月十五日はお釈迦様のご命日として「涅槃会」の法要をもちます。また、地域によっては三月十五日したりあるいは、常楽会という行事としているところもあります。


目次

挨拶(あいさつ)

『ことばのプレゼント』

 朝起きて「おはよう!」とお父さんやおかあさんに言っていますか?そんなのテレくさいなんておもっていませんか。
 「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」などの普通の言葉がなかなか言えないってことはよくあるものです。逆にそれが普通に言えるってことは素晴らしいことであり、気持のいいものです。そして、相手も気持ち良く返してくれたら、お互いにそんな気持になるものです。その時に、笑顔があったらもっともっと気持がいいですよね。
 笑顔であいさつするっていいプレゼントだと思いませんか?誰でもできるし、何か買ってあげるわけじゃないけど、もらったら気持いいですよね。それなら、私もお返ししようかなってなるものです。これが家族から友達から近所の人たち・・・へとどんどん広がっていけば、なんて素晴らしいことだと思いませんか?
 これは、仏教の中にも、誰にでも出来る行として、お釈迦様も教えています。みんながそうなれるように、まずは自分から声を掛けてみませんか?
 そこで、皆さんのことばのプレゼントとして、毎日つかっていることばの中で『美しいことばのベストテン」を選ぶとしたら、どういうことばでしょうか。これは昔、どこかで紹介されていた『美しいことばベストテン」(NHKアンケート)です。

<>美しいことばベストテン<>

@「おはよう」みんなが選んだナンバーワンです。すばらしいですね。
A「ありがとう」世界中で一番すばらしいことばともいえます。
B「さようなら」忘れて、知らない間に帰らないでね。
C「はいっ!」人に声をかけられたらまず「ハイッ」といいましょう。
D「頂きます」日本にしかない食前のことばとこころです。
E「すみません」素直にまず「すみません」、そしてお互いに許し合いましょう。
F「どうぞ」まずゆずりあいこころとことばが大切ですね。
G「お先に失礼します」順番であっても一言声をかけましょう。
H「あなた」心をこめて、愛をこめて「あなた」・・・・は美しいことばですね。
I「お母さん」母と子、親と子一体のこころですね。

今日からは「美しいことばベストテン」をたくさん使いましょう。

目次


仏壇

『お仏壇(お仏壇)』

 お仏壇とは、信仰するご本尊を中心として、先に逝ったご先祖さまのお位牌を安置して礼拝するためにしつらえた場所で、家庭生活の心のよりどころとなるべき大切なものです。
 ご先祖さまのいのちは、この天地に満たされている『大いなるいのち』に帰っておられます。ですから、ご先祖さまはこの世界のどこにでもおられるということです。私たちが、お仏壇をきれいに掃除をして心を清め、お仏壇の前で手を合わせて冥福をお祈りする時、ご先祖さまはそこにおられるのです。

 静岡県相良町にお住まいで、平成十年(1998年)十一月十八日に百十三才で日本一の長寿者に認定され、翌平成十一年二月、百十四才で亡くなった『秋野やす』という妙好人のようなおばあさんがおりました。この方は『おやすさん』と呼ばれ親しまれたそうです。
 おやすさんはとても信心深い方で、亡くなるまで、朝な夕な熱心にお仏壇にお参りをされていたそうです。しばしばおやすばあさんは、家族にこう言ったそうです。
 「お前らには先祖さまがみえるかえ?」おやすさんは言葉を続けて、
 「見えんら(見えないだろう)ワシにも先祖さまは見えんが、先祖さまのほうからは、お前らのことがよく見えているんだよ」と言ったそうです。
 信心とはこういうことだと思いますし、お仏壇からいつもご本尊さまやご先祖さまが見ていると信じられれば、私たちの行き方も過ちが少なくなるのではないでしようか。
 論語に『在ますが如く(いますがごとく)』という言葉がございます。すなわち供養するときは、仏さまや故人が今ここに生きている時と同じように振る舞うことが大切であると教えています。
 私たちの日々の生活が、ご本尊さまや先祖の大きな慈悲のもとに生かされていることに疑いをはさまず、仏さまがそこに在ますが如く
、常にお仏壇を中心としたご供養を大切に心がけたいものです。

※浄土真宗で深い安心を得た一般人をいう


<>妙心寺派のご本尊は?<>
 臨済宗ではお釈迦さまの正法を相承された初祖(二十八代)達磨大師、宗祖(三十八代)臨済禅師、開山無相大師さまに及ぶ一流の禅を宗旨及び教義としていますので、お釈迦さまを大恩教主と仰いで、尊崇し因縁によって三世一切の諸仏、諸尊も私たちの先覚者として仰ぎ、お姿を拝むことにより、自ら仏として修行に励むことです。
 よって私達の本尊さまは釈迦牟尼世尊(釈迦如来)・観世音菩薩等をお祀り致します。
 お仏壇の真ん中に本尊さまを安置いたしましょう。安置される時は住職にお願いして、開眼供養をいたしましょう。 
(壇信徒勤行聖典より抜粋)

目次

頂きます

『いただきます・ごちそうさま』

 地球上には、私たち人間も含め様ような動物や植物がが存在し、生きていることは誰でもが知っていることです。 人が生きていく上で大切なことに「食べる」という行為があります。私たちがご飯として食べている、肉や魚、野菜、お米などは、もともとそれぞれに生きているもの、命のあるものです。それを私たちが生きていくためのエネルギー源として、たべているのです。また、食卓に並ぶまで、たくさんの人のご苦労があり、私たちがご飯として食べることができるのです。
 さて、そのご飯を食べる前に手を合わせ「いただきます」食べ終わって「ごちそうさま」と言っていますか。
 これは単にその挨拶だけではないのです。私たちのご飯になって食べられた動物や植物の生命に感謝します。皆さんは生まれて今日までどれだけの命を頂いたでしょうか。そこで、その頂いた命を粗末にせず、その頂いた命へいくぶんかでもお返しが自分にはできるかという反省を込めます。そして供養の祈りを込めたいものです。
 こうした心をこめて「いただきます」・・・「ごちそうさま」ととなえて手を合わせましょう。
 また、修行中の雲水さんや、お坊さんは食前にご飯つぶをほんの少し取り分けて「生飯(せいはん)とします。これは生きとし生ける一切のものに少しでも分けてあげるのです。これも感謝の意味がこめられた作法です。
<>食事五観文<>(括弧内は現代文でとなえる一例です)
ひと          こう   たしょう    はか    か    らいしょ   はか
一つには 功の多少を計り 彼の来処を量る
(一つには、多くのおかげをおもい、感謝していただきます)
ふた         おのれ とくぎょう   ぜんけつ               く    おう
二つには 己が徳行の全闕をはかって供に応ず
(ふたつには、この食事をいただく資格があるか深く反省して供養を受けます)    
み           しん  ふせ     とがとんとう   はな       しゅう
三つには 心を防ぎ 過貪等を離るるを宗とす  
(三つには、不平を言わず欲張らず、よく味わっていただきます)
よ          まさ  りょうやく   こと            ぎょうこ   りょう
四つには 正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんがためなり
(四つには、この食事を健康な心身を保つための、お薬と心得ます)
いつ          どうぎょう  じょう       ため     まさ       じき
五つには 道業を成ぜんが為に 応にこの食をうくべし
(五つには、みんなが幸せになるよう仏道を成就するためにいただきます)

目次

      い  ぎ そく ぶっぽう

威儀(威儀即仏法)

 

『らしさ』

 修行中、お師匠様のお供で京都にでかけた時のことです。新幹線を待っていますと、反対側のホームに作務衣を来た和尚さんが頭陀袋(袈裟や衣などを入れる首に掛ける袋)を肩掛けし、手をブラブラさせて歩いています。その姿を見るや、お師匠様「和尚たるものが頭陀袋を肩掛けし、叉手(図参照)もせず手をブラブラさせて歩くとは・・・。威儀即仏法と言うではないか。ああいう姿を真似してはいかん。」
 
あなたは大丈夫ですか?学生らしい姿をしていますか?だらしない格好をしていませんか?

 女子少年院の様子をテレビで見たことがあります。
 彼女たちの多くは薬物使用や窃盗、性非行を経験して入ってきます。そして例外なく茶髪か金髪です。それを入院にあたって生まれたままの黒髪にそめるのです。さらに髪を二つに結び、伸びれば三つ編みにします。また紺地に白線の入った大きな襟の清楚な制服を着ていました。
 「人は外見で判断してはならない」と言いますが、少女たちはこうして外見を調えることで、自分自身が変わってゆくのです。そして更正への一歩を踏み出していきます。
 少年院での生活は規則正しい。まず起床と就寝が決まっています。食事も決まった時間に三度。当たり前のようですが、少女たちにとってはそうではないのです。これまでの生活は昼夜が逆転し、食事も一日に一度、お菓子程度のものしか食べていません。それがここでの折り目正しい生活で見る見る心が調っていくのです。

 「威儀即仏法」とは威厳のある行儀、生活がそのまま仏法であることを指します。正しい規律ある生活は仏法に入る前提ですが、さらにそれがそのまま仏法であると、威儀の大切なことを強調したものです。
 形より心が大切といいますが、逆に形を調えることによって心も調うことがあります。衣装やユニホームはそれを着ただけで、たちまち心までまでかえる力がありすよね。

<>  <>  <>
 枕草子(清少納言)の『心のときめきするもの』の段に
 「ことに見る人なき所にても、心のうちはなおいとをかし」と書いてあります。
 外見的威儀を正すことによって始めて、内面の心の威儀を清らかにする。誰に見せるものでもなく、自分自身の心を是正して美しくするための手段と言えます。

目次

 さ  む

作務

   みずか       つと        な

『自らの務めを作す』

 禅宗では畑仕事や掃除などの労働を作務といいます。
 中国、唐時代の百丈禅師はいくつになっても毎日の作務を欠かしませんでした。体調を心配した弟子たちが「和尚さんはもうご高齢ですから、作務はお止め下さい」と申し上げても聞き入れません。
 そこである日、弟子たちは百丈禅師の鎌や鍬を全て隠してしまいました。道具を隠された百丈禅師は仕方なく作務を休みましたが「一日作さざれば、一日食らわず」と言って食事をとろうとしません。弟子たちが困って道具を返すと、また喜んで作務に精をだされたそうです。
 この「一日作さざれば、一日食らわず」は働かざるもの食うべからず」という意味ではありません。作務とは、仏から与えられた作すべき務めであり、単に生活の糧を得るための労働ではないのです。
 最近は「どうすれば楽に効率よくもうけるか」と言うことばかりに社会の関心があるようですが、喜劇役者の藤山寛美さんは、生前よく「働くとははたを楽にする事」と仰っていたそうです。やはりかっての日本人には、仕事を通じて世の中のお役に立つという考え方があったようです。
 人はけっして一人で生きては行けません。必ず誰かのお世話になっています。だからこそ、自分も必ず誰かのお役に立つ必要があるのです。
 人間は、人と人の関わりの中で生かされ手いる存在であり、人間性とは、まわりの人たちとの関係から生まれてくるものです。自分勝手な行動は、自分自身の人間性を失わせかねません。お互いに人間らしく生きるためにも、自らの務めを果たしましょう。

<>

生きているということは

誰かに借りをつくること

生きていくということは

その借りを返していくこと

誰かに借りたら誰かに返そう

誰かにそうして貰ったように

誰かにそうしてあげよう

     永六輔 


目次

愛語

『愛語は最高のプレゼント』

 言葉は単なる記号ではありません。言葉にはいのちがあり、魂がこもっています。ひとつの言葉で励まされ、人生が輝き出すことがあります。

 「いらっしゃいませ!」今日もお店には彼の明るい声が響き渡ります。
 私の幼なじみに寿司職人がいます。彼は勉強がにがてで、高校進学を希望したのですが、かなえられませんでした。
 そこで彼は考えたのです。「俺は勉強はできないけれども、俺のやれることはないかなあ?」とかんがえ、彼は中学を出て、十六才の時に大阪へ寿司職人の修行にいきました。
 寿司屋は、僧侶や大工と同じような厳しい徒弟制度が今でもあります。彼が行った寿司屋も厳しい店で、最初の三年間は包丁をもたせてくれません。怖い大将や先輩の元で、ひたすら店の掃除や皿洗い等の下積みの毎日が続きます。しかし彼はまじめに修行をしたのです。
 入門して五年、彼が二十一才になったある日のこと、大将からカウンターに出てお客さんに寿司を握ることを命じられました。彼にとっては始めてのけいけんです。大阪のお客さんは食道楽ですから、みんな舌か肥えています。彼はとても緊張しましたが、それでも彼は一生懸命に寿司を握り、お客さんに食べてもらいました。
 するとお客さんは「君の握る寿司はすごくうまいねえ。おかげで今日の疲れが取れるよ」とにっこりしてほめてもらったそうです。
 その時、彼は「俺は勉強ができなかったけれども、この道を選んで本当に良かった。五年間の下積みは辛く、途中で幾度もくじけそうになったけれども、あのお客さんの一言に救われた。これからもみんなに喜んでもらえる寿司職人になれるように頑張ろう」と心の底から思ったそうです。
 彼は、それからもまじめに修行を続け、後に店の大将から暖簾分けをしてもらい、小さいながらも自分の店を持つことができ、今も大阪で元気に寿司職人として幸せに生きています。

 客のぬくもりのある一言が、彼の心を動かす最高のプレゼントとなったのです。やさしい言葉で語り合えばみんな幸せになれます。これを愛語と言います。私たちも、おたがい幸せになれるよういつも優しい言葉をたやさないよう努力してまいりましょう。

<>愛語<>
                ししょうほう
愛語とは慈愛のことば。四摂法、すなわち人びとを引きつけ救うための四つの徳目(布施・愛語・利行・同事)の二番目にあたります。
            しょうぼうねんしょきょう

 愛語について『正法念處経』ではこう説かれています。

                      ことば    
先に愛心を生じ、然る後に語を発す
 「・・・まず先に愛する心を起こしてから、その後で言葉を発しなさい、それが愛語である・・・」と。
 愛心のともなわない口先だけのきれいごとは愛語ではありません。私たちは人間関係のほとんどを言葉によってお互い構築しているのですから、言葉を大切に使わないと、かえって人を傷つけたり人間関係がこわれてしまうことも多々あることです。私たちも常にわきまえていきたいものです。

目次

布施

『ボランティアの心』

 人という字は直立歩行の形からできたといわれます。同時に人と人が支えあう心を表しています。私たちは社会生活を営む中で、この字のように知らず知らずの間に、お互いに支えあい助け合って生きています。その助け合いの輪を見直してみたり、その輪を広げようと考えた時、色々なことがわかります。また社会が豊かにもなります。
 あなたの周りに病気や怪我をしたお友達はいませんか。お年寄りや障害を持たれた方も少なくありません。また何らかの援助を必要とする方もいることでしょう。そうした時にお互いに助け合う知恵をだしあったり、心配をして下さる方がいることで、社会が幸せになったり豊かになることでしょう。仏教ではこれを布施といいます。この布施がボランティアにあたります。近年大きな事故や災害がおきた時など、若い方々のボランティア活動が活発になってきました。大変尊い事であり、ありがたいことです。
 先般この地域でも、時ならぬ大水害が発生しました。いままで受けたことのない大きな水害で地域全体がパニックに陥りました。特に一人住まいの方々や高齢家族の家庭ではその後の後始末もままならない状態でした。自分の身を守るのが精一杯で家財道具の整理や家中の壊れた物の後始末などに手が廻らず、途方にくれるばかりでした。その時、まさに天の助けの如き助っ人があらわれました。若い人のグループが手に手に手袋やタオル色々な道具まで用意して集まってきたのです。普段は町内のお付き合いもない名も知らぬ方ばかりです。水でふやけてしまったタタミや壊れた家具から汚泥までも、次々と運び出したり掃除をしたりしていきます。お互いの飲み物や昼食までどこからか調達しています。こうして一日中かかって、片付くとその人たちは、家の人達に向かって「これからが大変でしょうけど、がんばってください。」と優しい声までかけて、帰って行きました。被災した方々にとって、このような無条件のボランティアは、お金ではとうてい買えない大変心のこもったプレゼントであったことでしょう。社会の一人一人が、何かの時には支えあい、助け合い、協力し合いたいものです。そういう心がお互いに働く時、この社会から「幸せ」は無くならないことでしょう。

     _
 [s:dana] 出家修行者。仏教教団、貧困者などに財物その他を施し与えること。衣食などの物資を与える〈財施〉、教えを説き与える〈法施〉、怖れをとり除いてやる〈無畏施〉を〈三施〉という。大乗仏教では、菩薩が行うべき六つの実践徳目「六波羅蜜」(ろくはらみつ)」の一つとされ、施す者も施される者も、施物も本来的に空(くう)であるとして、執着の心を離れてなされるべきものとされた。転じて、僧侶に対して施し与えられる金品をいう。
 

目次

生命

『いのちの根っこ』

 あるところに背の高い大きな和尚さんがいました。そのお寺にはとても大きな楠の木がありました。和尚さんは毎朝、掃除をするたびに楠の木を仰いで見るのが大好きでした。
 そこへ、見知らぬおじいさんがやって来て「立派な木ですなあ。根っこもすごいでしょうな」と和尚さんに話しかけました。それまでは地面から空に向かってそびえる木の姿だけを見て満足していた和尚さんでしたが「眼に見えない土の中にまでのびた根っこも、楠の木なんだな」と和尚さんは気付かされました。
 暫くすると、今度は小さな女の子がやって来て「和尚さん大きいなあ。この楠の木みたい」と。「私が楠の木かあ、だったら私の根っこってなんだろう」和尚さんは考えてみました。「ああなるほど、私の根っこって御先祖様なんだ」と和尚さんは自分の根っこに気づいたのです。
 土深く広がった根っこによって大きな楠の木は支えられていたように、私たちの「いのち」もまたはるか原始時代から続くご先祖様という根っこに支えられていかされていたと。私たちは楠の木の葉っぱ
のように青々として、今、この瞬間を生きていると思ってたら、決して見ることのできない根っこ(御先祖様)の支えによってつながる、全体の「いのち」の最先端に生かされていたのです。
 ひとつひとつの「いのち」かと思ったら、全体の中に含まれたひとつの「いのち」だったのです。
 私たちは、ご先祖様や根っこのように眼に見えないものに気づいた時、一人では生きていけないんだなあと感動もでてきます。そして、そんな目に見えない根っこに感謝できる心が広がるといいですね。

<>見えないものを
    見る目を持とう
  見えないものを
    知る心を持とう
        坂村真民
  「一本の木を見つめていると」
               より抜粋 

目次

もののいのち

『もののいのちの大切さ』

 
 禅寺の暮らしには、環境問題という言葉すらなかった時代に「もののいのち」を大事にするというかんがえ、行いが徹底されていました。次の話にそれがよく表れています。

 江戸時代の末頃、岡山の「曹源寺」という臨済宗の名刹に「儀山善来」というお師匠様(老師)がいらっしゃいました。
 ある夏の暑い日、一人の修行僧が善来老師のお風呂番を勤める事になりました。井戸で水を汲んで風呂桶にため、薪で沸かし「それでは」と、お入りになる前に湯加減を見てみるとすこし熱い。そこで井戸で水を汲みお湯をうめました。ちょうど良い加減になったところで、水桶を見てみると、底の方にほんの少しばかり水がのこっています。ほんの少しだからと思い、パッと捨ててしまいました。気持ちはわかります。
 ところが、老師がその様子をご覧になっていました。
 「何で水をそこに捨てる!二、三歩歩いて畑まで行けば、暑くて水が欲しい欲しいと言っている野菜や草花がぎょうさんおるだろう。
 その声がお前には聞えんのか。
 野菜や草花に水をかけてやったら、その僅かな水のいのちがいかされるだろう。それがわからんのか。」

 「水のいのち」を生かし切るという教え、これはあらゆるものに通ずると思いますが、こういった教えが禅寺には伝えられています。
 ものに手を合わせ、もののいのちを大切にしないと、ナイナイづくしの生活になります。不殺生とは全てのいのちを大切にすることなのです。 
 「いのちの尊さ}が叫ばれる昨今ですが、人の命の尊さと同じように「もののいのち」にも今一度目を向け、教え導く必要があるように思います。
 何故なら「もののいのち」を大事にすることが「人の命」をも大事にするということにつながっていくからです。

  ぎ ざんぜんらい
※儀山善来(1802〜1879)
妙心寺五二三世となり大徳寺に歴任。十五人
もの老師を育て、また三人が管長となる。
 この話に出てくる修行僧が後の天龍寺派管長
             いってきすい しゅうせいもちいるもつきず
滴水宣牧老師。「曹源の一滴水、終生用不尽」
として、自分の名に「滴水」の語を付けられました。

目次

合掌

『頭をさげると頭がさがる』

 皆さんは誰かが手を合わせる姿をごらんになったことがありますか。心のこもった合掌をしている人の姿ほど美しいものはありません。反対に美しい姿で手を合わせると、次第に心が清らかになります。合掌には不思議な力があるようです。
 「右仏 左凡夫と 合わす手の 中にゆかしき 南無のひと声」と昔から言われるように、両手を合わせると仏様のこころと人間のこころが一つになります。また、悟りの心と迷いの心が一つになります。ごめんなさい、ありがとう、頂きます、ごちそうさまというように、合掌してあいさつする時はひときわ心がこもります。また心が深まり、安らかになり、清らかになっていきます。
 静岡県三島市にある龍沢寺の道場に中川宗渕という老師様がおられました。ある時、老師様は雲水さんと熱海の市内を托鉢しておられました。とある辻で小さな女の子が、路傍の小石を拾って老師様に差し上げました。老師様はなんのためらいもなく作法通り合掌していただき、頭陀袋に収めたまま寺へ帰りました。後で雲水が「石など持ち帰らないで、途中で捨てたらいいでしょうに。」と言うと老師様は「あんたはこともなげに石ころというが、あの時私が手を合わせて頂いたから、あの女の子は可愛い手を合わせたではないか。施す人も頂く人も共に合掌したからには、単なる石ころのやりとりではない。仏のおん命を頂いたのだ。だからこうして机の上に安置しておるのじゃ。」老師様は、その石に少女の優しい仏心を見出しその心に
手を合わせておられたのです。

 

 <>独り言<>

わたしがわたしになるために
じんせいのしっぱいも
ひつようでした
むだなくしんも
ほねおりも
かなしみも
すべひつようでした
わたしがわたしになれた
いま
みんなあなたのおかげです
おんじんたち掌をあわせ
ありがとうございましたと
ひとりごと

         をさ はるみ


目次

墓参

『お墓まいり』

 私が修行中、そのお寺の境内に壇信徒の墓地がありました。修行道場では毎月内外の大掃除があります。もちろん墓地も毎月二回大掃除をします。その墓地には一人のおじいさんが毎日雨が降ろうが風が吹こうが必ず決まった時間にお参りされて、お掃除をされ、お線香をそなえてかえられます。墓地は山際にあって周りにも木が沢山あります。雲水さんがいつもお掃除をするのですが、すぐ葉っぱにおおわれるようになります。そんな中いつ見ても、このおじいさんに手入れされているお墓だけは、ひときわきれいに清められていました。昨年、おじいさんは亡くなられました。それまでおそらく五〜六年はお墓に通われたことでしょう。しかしその後はその息子さんご夫婦がお墓参りに来られます。
 亡き人を想う時、大切な人を想う時、寂しくなったり、懐かしくなった時、ふと逢いたくなるものです。自覚しない間にその方のお墓に詣り、無心に手が合わさり、特別な日だからとお参りするのではなく、自然と足が運んでお参りしているというのが本来のお墓参りでしょう。
 「秋灯や 夫婦たがいに 無きごとし」という高濱虚子の俳句があります。先のおじいさんとおばあさんもこの俳句のように、お互いに支え合い、空気のように溶け合っていきておられたご夫婦だったとおもえます。そして息子さんともお互いに支えあえ感謝しあっての生活だったことでしょう。また、遠いご先祖さまとも一体となって生き、生かされていたと思えます。
 いま「墓離婚」ということばを聞くことがあります。近年急に耳にするようになった言葉です。死んでからまで主人と同じ墓に入りたくない、私は私の墓がいいというのです。何と寒々としたことばではないでしょうか。日常の生活がおもいやられる気がします。

 ここでご紹介したおじいさんにちなんで西条八十さんのすばらしい墓碑をご紹介しましょう。わたしたちもあやかりたいものです。

われら楽しくここに眠る
はなれ離れに生まれ
めぐりあい
短き時を愛に生きし二人
悲しく別れたけれどいまここに
こころとなりて
永遠に
寄り添い眠る
         やそ
    (西条 八十・晴子の墓誌より)

目次

供養

『母よわたくしもいただきまする』

       たね だ さんとうか      ごちゅうあん
 俳人種田山頭火は、其中庵で母の四十七回忌を迎えます。十一歳の時、彼の母は自宅の井戸に身を投げています。母の命日を迎えたこの日の彼には、運悪くお米が一粒もありません。台所の箱の隅から乾しうどんの半たば程をやっと探し出して、それをゆで、お位牌の前に供えます。手を合わせ、ひとり淋しく読経の後、つぶやくように唱えます。

         うどん供えて  母よ
               わたくしもいただきまする

               おおやま すみた     
 学生時代に、大山澄太氏の公演を聴いて以来、山頭火は心の片隅に一抹の寂しさと悲しみを感じさせる一方で、不思議な安らぎを与えてくれるようになりました。衣服も道具も何もかも捨て去って、余分なものは持たないで、こじき坊主に徹した彼が、母のお位牌だけはいつも大切にしてきた。そしてことあるごとに手を合わせ供養しています。

          わがいのちをいただいた  母あるは
          幸いなり  父あるも幸いなり
          ご先祖あるは  さらにさらに
          幸いなり

 このように思える人は幸せです。しかし、人びとはいつの間にか、各々が勝手に生き、勝手に死んで行くようになりました。みなさんはいかがでしょうか。ご両親やご先祖に感謝して日々をすごしておられるでしょうか。
             てんけいでんそん
 江戸時代の天桂伝尊というお坊さんは、

        無き母に供養するときは、
                  必ずその親に通じる
        無き子に供養するときは、
                  必ずその子に達する
        三世の仏祖に供養するときは、
                  必ず三世の仏祖に至る
        法界の万霊に施すときは、
                  必ず法界の万霊に届く

 だから、供養しようと思う人に対して、直接に差し上げ、お供えする心で行うべきであり、このことに一点の疑いを持つことなく真実の心で供養しなさい、と述べられております。
 山頭火の「母よわたくしもいただきまする」のこころをもって供養に励む時、必ず天桂和尚の教える供養に到る事ができるに違いありません。

 

 


目次

看脚下

『足元を見つめてみよう』


 「目の前が真っ暗になる」という言葉がありますが、そのような時、つまり、皆さんが深く悩んだり、落ち込んでしまった時など、何か良い方法あるのでしょうか。

 昔々、中国の法演(ほうえん)さんというお坊さんが三人の弟子と一緒に夜道をお寺に帰っていました。その時、風が吹いて明かりが消えてしまい、まわりが真っ暗闇になりました。そこで、法演は弟子達に「いま、明かりが消えて何も見えない。さあ、今この時の心境を言ってみよ」と問いかけました。二人の弟子はうまく答えられませんでしたが、円悟克勤(えんごこくごん)という弟子が「看脚下」(周りは真っ暗で、何もみえないから、自分の足元に目をやって歩こう)と答え、法演から褒められました。
 また、この言葉は「履物をきちんと揃えましょう」という意味でも、禅宗のお寺の玄関でよくみかけます。私も、履物が反対に脱いであったり、脱ぎ散らかっている家の玄関をたまに見かけます。その時は、きちんと直してあげたくなる物です。

 自分の脱いだ履物が乱れているということは、心も乱れているのです。それに気付き、履物をそろえる事によって自分の心も調うのです。更に付け加えると、履物だけでなく、普段の自分の考えや、行いをもう一度振り返ってみる、そこで、良いか悪いかを自分で考えて、気付き、実践していくことを教えてくれている言葉なのです。」

 
 悩んだり、落ち込んだ時は、とかくヤケになったり、他の人に助けを求めがちになるものです。その前にもう一度「看脚下」という言葉を思い出してください。自分自身の心のあり方や、行いを振り返ってみましょう。一歩前進するとおもいますよ。

 

 


目次

『こころ』

 こころって何だろう。自分でも驚くくらい、優しい自分がいる。そうかとおもうと、 友達を妬んだり 、うらやましがったり、人の失敗を楽しんでいる自分がいる。素直になりたいのに、どうしても人の言うことに逆らいたいところがある。そんな自分を嫌だと思う、私の心がある。考えてみると、私の心は、成績だとか、友達の何気ない一言だとか、そんなことに反応して「私」を持ち上げたり、地獄に突き落としたりする。こんな私のこころから、逃げ出したい私のこころがある。
 自分のこころを考えれば考えるほど、自分自身がわからなくなってしまいます。こころというものは、勉強していれば遊びが気になり、遊んでいれば勉強が気になるというように、いつも落ち着くことがありません。しかし、そんな暴れ馬のようなこころの走るに任せていたのでは、いつしか自分自身が振り落とされてしまいます。つまりは、自分を見失ってしまうのです。
 このように私の中には色々な心が詰めこまれているのでしょうか。「こころ」という字は、その色々な思いがころころと変わるからこころというのでしょうか。一体変わらない本当の私のこころとはどういうこころでしょうか。一度自分のこころをじっくり考えみつめてみましょう。 
  禅の教えでは「これが変わらない絶対の私の心」は無いのだと教えます。これを無心といいます。心が無いというのではありません。こうでなければならないという定まった心が無いのです。ですから、どんな時どんな所でもどのようにでも自由自在に働いてくれるのが心なのです。無心で自由な心があなたの心です。さらに禅ではその心はあなたの外にも、天の上から地の下まで貫いて全ての人、全てのものに行きわたって働いているこころがあると教えます。そんこころをもっとはっきりさせるために坐禅をしてみましょう、というのが禅の教えです。

                                                                          
 
  <>大いなる心<>
   
大いなる哉心や
        きわ
天の高きは極むべからず
1
  而るに心は天の上に出づ
地の厚きは測るべからず
  而るに心は地の下に出づ
        
月日の光は踰ゆべからず
  而るに心は日月光明の表に出づ
         
         こうぜんごこくろん    
       (興禅護国論 栄西禅師)

 仏教で心といえば、このこころをいいます。天地宇宙をも包こんでいて、天地宇宙をはたらかしているこころのことをいいます。
 

目次

坐禅

『身体と呼吸と心を調えましょう』

 坐禅と聞くと、厳しい修行というイメージがあるかもしれませんが、実は坐禅とは身体と呼吸と心を調えることだと言われています。
 近年、東洋医学が見直されています。元気とか病気という言葉もありますが、古くから東洋では「気」に注目してきました。
 朝、山々から立ち上る水蒸気やご飯を炊く時お釜から上がる湯気も気の一種ですが本来気には上昇しようとする性質があります。
 私達の体内の気が上昇するとどうなるのでしょう。「上気する」という言葉の通り、頭に血がのぼってイライラしたり、ひどい時には頭痛を起こしたりします。
 そこで昔から頭寒足熱が良いと言われていますが、体内の気はなるべく下げる方が健康的にも、精神的にも良いのです。そして坐禅にも、体内の気を下げる効果があるのです。
 坐禅の時、姿勢を正し背筋を伸ばすよう言われるのは、深い複式呼吸をするためです。もし体が前後左右に片寄っていたら、充分に横隔膜を下げることができません。
 「長息は長生きのもと」などとも言われますが、ゆっくりとした腹式呼吸をする事で体内の気が下がり、心が落ち着き、体調も調ってくるのです。
 姿勢を調え、呼吸を調え、心を調えるのが坐禅ですから、何も足を組んで座るだけが坐禅ではありません。椅子に座ったり、布団に寝たりでも結構です。お腹に力を入れてゆっくり静かに息を吐いてみてください。すると次第に心が落ち着いてきます。
 現代社会の生活は、時間に追われてあわただしく過ごしがちですが、忙しい時こそあわてずに、ひと呼吸置くことが大切です。もしも日々の生活で、何かにつまずいたり、迷ったりした時には、ます自分の姿勢を正し、深呼吸してみましょう。すると正しい方向が見えてくるのではないでしょうか。
<>坐禅義より<>
しんそう          きそく     ととの  しか
身相既に定まり、気息既に調い、然る後、
せいふく かんほう          すべ  しりょう       なか    
臍腹を寛放し、一切善悪都て思量すること莫れ
                           せいかたんでん

「身相が調い、呼吸が調ったならば、臍下丹田といって

                     ゆる

下腹部へ軽くを力を入れて、寛やかに解放し、精神をこ

                   けいこ

こに集中して何も思わない稽古をするのである。」

 

山田無文老師


目次

読経

『お経パワーで幸せに』

 みなさんは和尚さんが読んでいるお経を聞いたことがありますか。中には『般若心経』ぐらいは一人でも読める人もいますね。でも、お経は何を言ってるのかわからないでしょうね。
 小さい頃、どこかのお寺で「ねずみ経」という紙芝居を見たことがありました。昔々、一人のお侍が峠茶屋のおばあさんにお経を読んでと、たのまれました。でもお経なんて知りません。お仏壇の前に座った時、お仏壇の後ろからネズミが出てきました。それを見て「ネズミが一匹、オンチロチョロソワカ」・・・「今度は二匹で、オンチョロチョロ・・・」などと唱えてお経にしてしまいました。お話はここから面白くなるのですが・・・。この時のお経は、もちろんメチャメチャです。本当のお経はお釈迦様の教えがくわしく説かれているのです。学校では教えてくれない人生についての大切な教えがくわしく説かれています。お経はその内容も大切ですが、そのお経を声をあげて読んでいくことも大変よいことです。
 私の檀家にAさんという明るいおばあさんがいます。Aさんは和尚さんに負けないほど立派なお経をあげられます。Aさんは若い頃、ご主人が剣道の試合によく出場されていました。そしてその時、奥さんは家で「主人が試合に勝ってくれますように」と念じて『般若心経』を読むようになりました。いつしか御主人は剣道の先生にまでなりました。そして奥さんの方は沢山のお経を、しかも立派な声で上手に唱えられるようになっていました。そのうち、お経には何が書かれているのかを学ぶようになりました。このAさんはお人柄も明るく、家族皆にはやさしく、時にはお孫さんには上手に躾をされています。皆さんもまず、短いお経から声を出して読んで見てください。毎日、少しでいいですから、お経を声を上げて読むことをお勧めします。知らないうちにあなたの心も変わり、すばらしい人生が開かれていくことをお約束します。
くどく         
     <>読経の功徳<>    
 心を淨める
 (心が自由自在になる)
 身のさわりを除く
 (身体と呼吸が調う)
 心のわだかまりを除く
 (ストレスがとれる)
 心願が成就する
 (志しや誓いを明らかにする)
 諸天を歓ばす
 (心が神仏にかなう)
 故人の霊を慰める
 (供養が届く)
 見聞を深くする
 (悪心を清め、信心をおこさせる)
 仏縁を広める
 (迷える衆生に仏縁を広める)

目次

<>あとがき<>

 この『朝・昼・晩ちょっと禅』は、臨済宗妙心寺派四国布教師会において青少年へのアンケート調査をしたことがきっかけとなり、執筆、発行のはこびとなりました。
 お寺ご縁のある檀信徒の青少年のみなさまには、禅の教えを学ぶ入門書と思って読んでみて下さい。今日一日の朝・昼・晩のちょっとしたひと時に、この禅のことば・禅の教えを思い出していただきたいものです。そこからひそかに、あなたの生き方が変わり、深まるきっかけとなれば幸いです。この本が禅の教えのいざないとなり、これからの人生に新しい一ページを開くきっかけになることをねんじています。
 最後になりましたが、執筆者の一人でもある多田曹渓師には、素敵なイラストをたくさん作成し花を添えていただきありがとうございました。

執筆者一覧

小田実全  光教寺住職
福山宗徳  三宝寺副住職
五葉光鐵  城願寺住職
山崎忠司  観音寺住職
新山玄宗  福成寺住職
山本文匡  実相寺副住職
武山寛仁  広福寺住職
横田宗忠  法泉寺住職
多田曹溪  傳宗寺住職
        (アイウエオ順)

朝・昼・晩『ちょっと禅』

二〇〇五年十二月吉日 第一刷発行
 
修・・・横田宗忠
発行者・・・臨済宗妙心寺派 四国布教師会
発行所・・・法泉寺内青少年教化資料発行委員会
〒760−0017
香川県高松市番町一丁目三の十九      

電話(〇八七)八二一の七三八九        

本文イラスト・多田曹溪 傳宗寺副住職
印刷・製本・・Kプランニング

ページはこの本から転載いたしております。
記載ミスがありましたらお知らせ下さい。

Top

当代和尚の部屋

Main Index