禅寺の暮らしには、環境問題という言葉すらなかった時代に「もののいのち」を大事にするというかんがえ、行いが徹底されていました。次の話にそれがよく表れています。 江戸時代の末頃、岡山の「曹源寺」という臨済宗の名刹に「儀山善来」というお師匠様(老師)がいらっしゃいました。
ある夏の暑い日、一人の修行僧が善来老師のお風呂番を勤める事になりました。井戸で水を汲んで風呂桶にため、薪で沸かし「それでは」と、お入りになる前に湯加減を見てみるとすこし熱い。そこで井戸で水を汲みお湯をうめました。ちょうど良い加減になったところで、水桶を見てみると、底の方にほんの少しばかり水がのこっています。ほんの少しだからと思い、パッと捨ててしまいました。気持ちはわかります。 ところが、老師がその様子をご覧になっていました。 「何で水をそこに捨てる!二、三歩歩いて畑まで行けば、暑くて水が欲しい欲しいと言っている野菜や草花がぎょうさんおるだろう。 その声がお前には聞えんのか。 野菜や草花に水をかけてやったら、その僅かな水のいのちがいかされるだろう。それがわからんのか。」 「水のいのち」を生かし切るという教え、これはあらゆるものに通ずると思いますが、こういった教えが禅寺には伝えられています。 ものに手を合わせ、もののいのちを大切にしないと、ナイナイづくしの生活になります。不殺生とは全てのいのちを大切にすることなのです。 「いのちの尊さ}が叫ばれる昨今ですが、人の命の尊さと同じように「もののいのち」にも今一度目を向け、教え導く必要があるように思います。 何故なら「もののいのち」を大事にすることが「人の命」をも大事にするということにつながっていくからです。 |